文化・芸術

クリエイティブ・ペインティング

クリエイティブ・ペインティング。

その講座名に惹かれて、参加してきました。なつかしい母校での公開講座です。

「ぬらし絵」を初体験。あらかじめ、画用紙を濡らしてその上から水彩画を描いてゆきます。題材は、植物。葉と花です。

「写実的に描くのは、物質主義的だと思うのです」 ドイツ人の先生は通訳を通してこんな言葉から授業を始めました。そう、今日は写生大会ではなく、自分の内側から植物を表現する画家になるんだ。

まず、背景の色から紙におとしてゆきます。これが案外難しい。2色しか使いませんが、参加者全員の数だけそれぞれの背景が生まれます。そしてその上から背景の色からまるで浮き出るかのように葉や花を描いてゆきます。それも実際の植物を観ながらではなく、あくまでも自分の想像力で。これがまたまた難しい。想像力豊かに描いてよいのですが、あくまでも「花」を、「葉」を描かなくてはなりません。よって、それらの本質をとらえていないとアイディアもでてこないのです。

花が好きだ、といっているくせに自分がこんなにも花を知らない=観ていないことに愕然としました。筆がなかなか進みません。

使った色はほんの3、4色。それらを重ねてゆくことで色は何通りにもなります。紙がぬれているので重ねた色は違う色に変化し、そして周囲の色とも調和してゆきます。・・・バランスさえとれていれば、の話ですが。

調和とバランス・・・。これは自分自身の内的なテーマでもあります。

サイトに偉そうに、「季丘タロット」にこんなことを載せていますが
<http://homepage3.nifty.com/inohanae/Life_Painting_File5.html>

自分の出来上がった作品を見て、こりゃまだまだだな・・・と痛感した日曜日でした。そして実に面白い体験でした。たった2枚の絵を描いただけですが、驚くほどの「私の気づき」がありました。何につけても上手、下手ということよりも、こういうことが大切だと思っています。

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この世とあの世との間で・・・~ミュージカル~

日曜日に友人に誘われ観たのが 『広い宇宙の中で』というミュージカル。

http://suisei.m78.com/library/09-1hiroi/t.html

娘を産むと同時に息を引き取った女性が主人公。彼女は家族のことが心配で、「自分の意志」で霊となって12年間その家にとどまることに。もちろん家族たちは彼女の存在に気づくことなく、時は流れます。やがて、夫の再婚話が持ち上がることで幽霊の彼女も心おだやかではありません。子供たちも、母親に早く先立たれた影響もあり、だれもが個々に悩みを抱えています。目の離せないテンポのあるストーリー展開で素晴らしい作品でした。

主人公の女性をあの世へ旅立たせなかったもの・・・それは『家族を思う気持ち』。前回のブログで触れた平知盛は『恨み』の感情が霊となっていました。コレ、実はどちらも「感情」という意味では同じことです。では、どんな「感情」でもこの世にとどまってしまう要因となりうるのでしょうか。

最終的には、主人公の女性は迎えの天使とともに無事天国へ旅立ちます。ラストシーンをみながら、「ああそういうことか」と、"あること"に気づきました。

その女性は、幽霊になってとどまると決めた時は『家族を思う気持ち』の中心は「自分を忘れないで」だったのです。私がいないと心配=皆はわたしのもの というような。

ですが、ラストでは彼女はその気持ちを手放します。手放すというより、その気持ちを超えるもの・・・もっと崇高な想いが彼女の内にあらわれていたのです。それは、「私の願いは、みながいつも笑顔でいてくれること」というセリフが物語っていました。自分(母親)を思って泣いたり悲しんだりしていないで、それぞれがそれぞれの人生を笑顔で歩いていってもらいたい・・・それこそが私の喜びでもある、と。彼女は「感情」をもっと高いレベルのものへ昇化させたといえます。だから旅立てたともいえましょう。

死後の世界はわかりません。私もまだ行ったことないですし・・・。ただ、週末の2つの劇を通して、命の終わりに自分がどんな気持ちを抱いてこの世からあの世へ旅立ってゆくのがよいのか、ということを考えてみたのでした。

今回のように、形は違えど同時期に似たような体験をする場合、そこに大切なメッセージがこめられているものです。そのことを自分の内側で咀嚼し、読み取ることが重要です。そう、タロットでも連携カードといって、同じシンボルをもつ2枚のカードには注目するのです。タロット生活のおかげでその読み取り作業がずいぶん上手になったんですヨ。

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この世とあの世との間で・・・~能~

満月の夜、神社の神楽殿で『薪能』を観ました。天候にも恵まれ、舞台の脇で燃え盛る薪から火の粉が躍り出し、最高の環境設定。

『薪能』のお題目は「船弁慶」。

ストーリー:源義経が兄・頼朝に追われ、弁慶とともに舟で逃げることに。前半は愛する静御前との別れの場面。静御前の悲しくも美しい別れの舞がみどころです。後半では、大海原へくりだした義経たちの前に、かつて義経が滅ぼした平家の大将・平知盛が亡霊となってあらわれます。義経は、果敢に立ち向かいますが、最終的には弁慶の法力(念仏)で知盛を退散させます。(武蔵坊・弁慶ですから、彼はお坊さんなのです) 前半の静御前と後半の平知盛はおなじ一人の役者によって演じられるという、オドロキの舞台。被る面“を変え、義経を愛する役と恨む役を演じわけます。

能は、観る側にも相当の想像力が求められます。お面は表情が変わるわけではありません。場面が海の上の設定でも、バックの壁には松の木、役者のうしろには楽器を演奏する男性陣が座っており、舟も驚くほど簡素(棒で組み立てた・・・ぐらいのまるで子供のおもちゃのような・・・ちょっと失礼かしら)なものでした。ですが、不思議なことに、自分もその世界の中に入ろうと意識することで、見える景色も変わってくるものです。

能は、この世の存在ではない、つまり幽霊が登場する設定が多いようです。船弁慶は、前半こそ静御前でしたが、後半の平家の大将は「亡霊」です。大きな長刀を持ち、ものすごい形相(のお面)で義経めがけてとびかかります。義経が憎くて憎くて仕方がないのです。

平知盛を演じたシテ役の人が被っていたお面はそれはもう恐ろしく、まるで鬼のよう。

「人は死んで、肉体がなくなった後、もし恨みだけ残そうとすると、たとえばこんな姿になるのかしら」その姿をみながらふと思いました。

普段、なかなかお目にかかることのできない能の世界を楽しみながら、一方で、人間の『感情』というものは、たとえ肉体が滅んでも、共に消滅しないほどの強い力をもっているのだということについて、うーんと考えさせられた時間でした。

死ぬときに、なんらかの強い感情を執着として地上の誰か(または何か)に残そうと思えばできるのかも・・・と考えると、なんだかゾッとしてしまったわけです。

そして、この思いは翌日のミュージカルでさらに強まることに。

・・・つづく

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この世とあの世との間で・・・

非常に面白い週末を過ごしました。感じることが多すぎてまだ消化中なため、なかなか文章に書き起こすことが難しい状態です。が、興奮冷めやらぬうちに(?)したためることも大切かと思い、何回かにわけながらブログに記します。

この週末、2つの観劇をしました。土曜日は『薪能(たきぎのう)』、日曜日は『ミュージカル』。

不思議なことに、全くタイプの違う「古代日本の野外劇」と「現代ミュージカル」には大きな共通点がありました。どちらも主役が『この世を去った(死んでしまった)のにもかかわらず、まだあの世へ旅立たず(旅立てず)、とどまっている人物』だったのです。いわゆる「幽霊」という存在です。

2つをあらかじめ予定していたわけではなく、日曜のミュージカルは急なお誘いだったので、結果「不思議だなぁ」と思ったわけです。しかも週末(5月9日・土曜)は、1年のうち最も強力なエネルギーが天界から降り注ぐといわれている5月の満月。日々、ベールの向こう側と接触をはかっているタロットリーダーとしては、なにやらただならぬものを感じました。

まず、土曜日の「能」から書いてゆきたいと思います。続きはまた明日・・・

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