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2009年1月

器(うつわ)

あの人は「器の大きい人だ」

器(うつわ)。この場合、人の見目形(みめかたち)ではなく、明らかに内面の大小を表す言葉です。

仕事でも、あるいはそれ以外の場でも、人の上に立つ存在は、特に『器の大きさ』が問われます。人の上に立つ、といいながら、器というものは底面にあっててその上に色んなものをのせる(=受け入れる)役割なのですね。その姿はまるで大きな船ともいえます。

自分の器がどの程度の船になれるのか、生まれながらに決まっているのでしょうか。それとも経験が船の大きさを決めてゆくのでしょうか。

人生とはわからないものですが、それぞれ自分に出来るうる限りの大きな船、安全な航海のできる船を作り上げてゆきたいですね。

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わたしはまことのぶどうの木

毎朝、オフィスまで「いちょう並木」を気持ちよく歩いています。いつも木を眺めながら、『木の姿は本当に「ヒト」にたとえられるなぁ』と思っていました。

今朝もそんなことを感じていると、突然、

「わたしはぶどうの木」 というフレーズが頭をよぎりました。

コレ、何だっけ?どこで聞いたのかしら?

早速調べると(今は便利ですね)、聖書の一節でした。

『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。・・・』

続きは、"新約聖書 ヨハネによる福音書 第15章" をどうぞ。

クリスチャンではありませんが、たまにこうしてひょんな機会があると聖書を開きます。信者でなくとも、わたしという人間の目線で、深遠な何かが響いてくることがあります。

不思議なものですね。

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自然体

目に見えるすべてのことはメッセージ♪

ユーミンの歌の歌詞にもありますが、以前にも触れましたとおり、コレ、本当なんですね。

ですが、このことに固執しすぎて『あれもメッセージじゃないか、これにはどんな意味が隠されているのか』にやっきになると・・・なあんにもわからないわけで。

いつでも答えはそこにあることを認識しながら、そのことに執着せず、自然体で過ごすことこそが大切だなと思います。

たしかに、キャッチしやすい環境というのはある気がします。私の場合は、朝の通勤時、新鮮な空気を吸いながら木々や鳥の声の間を歩いているとき。もしくは、水と接しているときでしょうか。例えばお風呂とかトイレとか・・・。

ということはやはりリラックス=自然体が鍵であるといえますね。

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やる気の泉

どうも今日は(今は)やる気が起こらない・・・おっくうだなぁと思うときと、

何でも取り組んでみよう、すぐやろう!とやる気がみなぎっているときと、

同じ『私』なのに、いったい何が違うのでしょう?いったい何が作用しているのでしょうね?

どうも、自分の内側には『やる気の泉』があるようです。その泉の状態次第で変わってくるのかもしれません。

泉を直接のぞくことはできませんが・・・タロットを通じて泉を美しく保つことはできそうです。

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喉元過ぎれば・・・

昨日、夕方から急に頭痛と吐き気に見舞われました。仕事後は、楽しみにしていた英語の講座。どうしても、なにがなんでも行きたくて体にムチ打って会場へ。

受講中も、吐き気を飛ばしたい一心で誰よりも質問していた私。・・・普段の私はそんなことしないのです。今振り返ると我ながら滑稽です。

結局最後まで授業は受けましたが、途中、2度ほど化粧室へかけこみました。何でこんな日に?帰宅途中の電車でもひと駅が長い長い・・・。

苦しさとの闘いの中で、『これから解放されるならなにもいらない・・・。普通に息ができて毎日過ごせるだけでなんて幸せなんだ』そんな境地でした。

たまに腹痛を起こすときも同じことを思うのです。そのときは。本当に『痛みから逃れられれば何もいらない』と。

体のどこにも痛み・苦しみがなく普通に過ごせることの有難み・・・本当に分かっていない日常だな、とこういう目にあって痛感させられます。喉元過ぎれば・・・を何回もやっている私です。そのたびに、反省。

あたりまえの日常に、感謝です。

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無駄をなくす

去年から続いているのですが、『無駄をなくす』心がけに拍車がかかってきています。

自分をよく観察すると、いかに無駄が多いかに気づかされます。

代表的なことは、

・無駄な時間
・無駄な飲食
・無駄な出費

そして最も気をつけたいこと、

・無駄な思考(考えてもらちがあかないことへの執着)

これは時間の浪費へもつながりますし、その瞬間に必要な別の物事への集中力も欠きます。己のこころはどこへやら?状態です。

とことん、自分の無駄を減らしてゆきたいです。別にケチになるとかストイックになるとかではなく・・・自分が一体、一瞬一瞬何をしているのかを認識(観察)するための作業です。

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醜い部分も自分なのだ

スピリチュアルなことに関心がある人ほど陥りやすいパターン・・・

目指す『聖人像』になるために、いろんなハウツーをためし、そのメソッドに乗っかっていればそのままゴールにいけると信じ込む・・・

これって、自分に醜い部分があるということを全く自覚しないまま、いきなりピュアな存在になりきろうとする、はたまた特別な力を得ようとする危険な行為だと思います。

第一に必要なのが、まずは醜い自分も自分であることをまっすぐ正面から受け止めること。それは自分を蔑むためにやるのではなく、自分以外のところで起こっている醜さが実は自分の内側にもあるのだということに気づくため。

遠くで起こっている戦争がダメだ、と言いながら、自分が戦争にも匹敵するような行為を知らず知らずの間にやっていないかな・・・?その気づきこそ、はじめの一歩のような気がするのです。

まず、いまの自分をまっすぐに見つめていきましょう。

ダイレクトに見つめるのがキビシイなら・・・タロットに鏡になってもらいましょう。

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過去は今つくられる?

過ぎ去った事を思い出したり考えたりする場合、、実際に起こった出来事・事実そのものより、それが楽しかったか、悲しかったかという「どう感じたか」という部分に焦点をあてることがほとんどではないでしょうか。

例えば、○○の試験を受けて落ちた。という出来事・・・この事実は事実としてその時点も今も変わらないのですが、そのことより「だから落ち込んだ。悔しかった。△□だった・・・」というあとで色づけされた景色で思い出が描かれ、記憶の大部分を占めるのです。

つまり、起こった出来事そのものより、そのことを自分がどう受け止めたかで過去が作られているわけで・・・。そしてそれは時間とともに変化するのですね。3か月前の自分はその出来事に対して×というイメージを持っていたけれど、今はそうでもない、△かな。というように。

もしかしたら、過去は今自分が作っているものであり、過去は現在の産物なのでは?と思えます。

人間とはなんと複雑な生き物なのでしょうね。出来事そのものでなく、受け止めた感情で自分の歴史を作っているようなものです。。。そしてその感情は当てにならず、刻々と変わるのですから。

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背中を押してほしいとき

ありますよね・・・ポーン!と誰かに背中をおしてほしいとき。

この気持ちはナンなのでしょう?自分でこっちにいきたい、こうしたいとわかっているのに。その一歩が踏み出せないとき、誰かのほんのささやかな一言で目の前の信号が「青」になる。

結局は自分が決め、自分が行動するわけですが、やはり人はひとりでありながら、ひとりではないんだなと思いました。

タロットからの答えも心強いですが、周りの仲間の存在もなんと有難い・・・そんなことをしみじみと思った土曜の夜であります。

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もしも願いが叶うなら

もしも自分の願い、ふと思ったことがそのまま実現する・・・してしまうとしたら?

夢のように「幸せ」な毎日でしょうか?

ちょっと待ってください。思ったことがすべて現実となるなら、たとえそれが否定的な思いでも、です。

あなたが日々願うこと、思うことはどんな風景でしょうか?

すべてが叶うことを前提に、心模様を描いていたいですね。

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虹色瞑想

毎朝、通勤電車の中でアレコレ人体実験するのが好きな私。

恵まれたことに、乗り換えなしに1本・20分強の乗車なので何かひとつやるのには都合のよい通勤時間なのです。読書もよいのですが、ほとんど立つことが多く、せっかくの朝なので外の景色を眺めながらやれることがよいのです。

この間までは、免疫力がUPするという指の関節をモミモミする運動。そしてここ最近は「虹色瞑想」を楽しんでいます。

ご存知の人も多いかと思いますが、人体には7つのエネルギーセンターがあるといわれています。下は臀部あたりから上は頭頂部まで。それは下から上へちょうど虹の7色があてはまり、「チャクラ」と呼ばれています。チャクラの活性化は心身の健康とつながっているのです。

車窓からの景色をぼぉっと眺めながら、チャクラのひとつひとつに意識を集中して下から上へ、順番に虹の7色をイメージします。わたしはなぜかビリヤードの玉を思い浮かべるとやりやすいです。なぜか。ビリヤード、生まれて2、3回しかやったことないのですけれど、ね。

面白いことに、色によってはなかなかきれいな発色が描けない色もあるのです。わたしにとっては結構うなずけるバロメーターになっています。

そしてこれまた面白いことに、そのきれいに描けない色を求めて車内に目をやると、広告のどれかに「ああこの色」と思えるピッタリの色を見つけることができたりして。

そんなこんなで20分はあっという間に過ぎます。この虹色瞑想、しばらくはマイブームとして続きそうです。

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三角関係

タロット・リーディングをしていて、自分と質問者の間にラポール(共感)関係ができている状態であるとき、そこには明らかに自分たち以外に、もうひとりの存在があります。

質問者と私と、そして「タロットの精」らしき存在です。

「らしき」という表現をするワケは、私はその存在をこの目で見たことがないのではっきり言えないわけでして・・・。

タロットは質問者の"心の鏡"の役割をしているので、ある意味その人の分身ともいえますが、リーディングをしていると、その空間に2つではなく、3つの点、つまり三角の関係を感じとることがよくあります。その三角の点がしっかりと結ばれている場合、リーディングがスムーズに進み、質問者の持つ問題の解決策がカードから読み取れます。

『三人寄れば文殊の知恵』とはよくいったもので、ひとりでもNG、ふたりでも頼りない、でも三人なら何かよい知恵がでてきそうな・・・リーディングをするとそんな気がしてきます。

三角には不思議な力があるのでしょうか。

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続・受け取ること  ~カバラ~

「受信」に関連して、もうひとつ書きたいことがありました。

それは 特別な「受信」です。

ユダヤの神秘思想といわれている「カバラ」には

『受け取られたもの』という意味があるそうです。

以前、カバラを教わる機会に恵まれたことがありますが、正直まだ何のことなのか雲をつかむような感触しかもてませんでした。

ただ、こういうことははっきりと感じました。

それは、カバラとは 受け取る資格があるものだけが 受け取るもの ということです。

その受け取る資格、とは一体何でしょうか?コレがムズカシイ。。。正直わかりません。なので、むやみやたらに「つかみとるような受け取り方」が危険であると認識しています。

よく霊的に高いといわれている人に接して、その人に近づこうとする人々がいます。誰もがほかの人になれるわけがないのです。自分は自分にしかなれず、自分の人生しか生きられません。そこに、何かを無理やりに目指そうとすると、それは『欲望』そのものになりかねません。

叡智を目指し、真理を求める道にはこういった落とし穴が沢山ある気がします。タロットの道もまたしかり。

よって、いくらカメさんのように遅くなっても自分の器の範囲内で受け取ることが大切だと思っています。ただ、その歩みを止めないよう続けることこそが必要なのだと。

ゆっくり、ゆっくり、です。

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受け取ること

最近、「受信」について非常に敏感になっています。

私宛に送られてくるあらゆる送信物はもちろん、そうでなくとも目に見えるすべての視界にあるもの、これも映像として意識的に「受信」します。

人は同じものを見ても、聞いても、ほんとうに人それぞれの受け取り方をしていると気づかされます。自分には気づけなかったこと、あるいは自分しか気づかなかったこと、お互いに気づいたこと、様々です。その人がもつ「受信機」が違うのですね。

受信機の感度のよいときは、朝の通勤時の電車から見える風景でさえ、いろんなメッセージを運んできてくれます。オフィスでとなりの席の人との何気ない会話からも、深い意味を教わったりすることもあります。

昨日、久しぶりに母と会いました。お茶を飲みながら、母はいつも以上に多弁でした。本人はそれにちっとも気づいていません。とにかく話し続けます。その内容にもやはり、私が欲しかった答えが含まれていたりしました。

こういう時期はとにかく静かにしていて、ただただ「感謝」です。そして、理屈でなく、また無理もなく、自分を囲む環境に感謝できるから不思議です。

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帰依

年末から年明けにかけて、私の脳裏を幾度もよぎった言葉‐‐‐

それが『帰依』でした。

聞いたことはあっても、今まで特に意識して考えたこともなく、なぜこの言葉が何度も浮かんでくるのかわかりませんでした。年末サンフランシスコへ飛び立った直後、夕日に赤く染まった雲海を見つめたとき。年が明け、初めてタロットカードを引いたとき。そしてカリフォルニアの山で再び雲の上から雲海を眺めたとき---

手元の国語辞典で引いてみると、帰依とは「仏を信じ、その教えに従うこと」とあります。たしかに、帰依が仏教用語ということは知っていました。ただ、私が帰依という言葉に対して抱いた感覚はひとつの宗教で形づくられるものではなくて、何か"大いなるもの"に身を委ねて進みなさい、そんなことを言われている気がしました。

数年前、長年勤めた職場を離れ、その後タロットとの出会いがありました。これこそ自分がずっと探究してゆきたい道、そう思い歩き出しました。

何かを始めると、すぐ結果についてあれこれ考えてしまいます。
コレをやって成功するだろうか?うまくいくだろうか?私もタロットに対してそんな不安を抱いているように思います。その気持ちに対して、自分が信じたものに『帰依する』ことの大切さを告げられたのかもしれません。

自分でもまだよくわからないこの感覚ですが、結果にこだわらず「コレをやるんだ」という意志をもって前に進んでゆこうと思います。今年はスタート地点から何やら不思議な感じです。

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平等ではないけれど・・・

人は生まれた場所によって与えられる環境はそれぞれですね。どの国に生まれたかということもさることながら、どの家に生まれたかということでも。家とは血筋という意味でもあります。

そう思うと、人生のスタートラインで人間とは平等ではないわけで・・・悲しいかな、それが現実です。

しかしながら、一見、何もかも持っていて恵まれているはずなのにどこか満たされない人もいれば、ラッキーな環境ではないはずなのに、微笑みを絶やさない人もいます。

つまり「物質的な豊かさ」が「精神的な豊かさ」を保証してくれるわけではない、ということです。生まれた時点で与えられた恵みをうまく生かせない人、逆に、始まりは寒風が吹いていてもほんの一粒の種に懸命に光や水を与え、花を咲かせる人もいて、人生とはわからないものです。

大切なのは、自分の持っている種がどんな種なのか、どんな花を咲かせることができるのかをしっかりと見極めて、大きく育つ条件を自分で作っていくことなのかなと思います。

あ、まるでSMAPの『世界にひとつだけの花』そのものですね。

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年末から年始にかけて、私はアメリカ・サンフランシスコにいました。

そこで中国人の友人と話をしていた際に、ちょうど私が「易の話」という本を読んでいたので『易』という言葉から占いの話に発展しました。

話の中で、彼女は「縁」という言葉を取り上げました。私たちはよく「ご縁がありますね」「何かのご縁で」と頻繁に使いますが、この「縁」という言葉を西洋の人たちにわかってもらうのはなかなか難しいことのようです。

縁を単に connection といってみてもニュアンスが違うね・・・そんな感想を彼女と共有しました。この『縁』は、彼女にいわせると、「あなたと私は過去の生でつながりがあったからこうして出会って繋がりをもったの。それが縁。縁がなければすれちがってもただそれだけ」

そんなことを聞いていると、やはり過去生というものは存在するのだろうか・・・と思ったりします。

『袖ふれあうのも他生の縁』という言葉がありましたね。

彼女の口から出た他の言葉、「悟」や「佛」なども、その一文字で深く深く伝わってくるいいようのない重みを感じて、なるほど自分は漢字というものを意外なまでに自分に刻み込んでいるものだなぁと思いました。漢字の奥深さを意外な場所で認識した瞬間でした。

彼女に会ったのも、本当に ご縁 といえましょう。

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2009年

お正月は毎年、家族と静かに・厳かに迎えていたのですが、2009年は生まれて初めて外国の地で年の変わり目を過ごしました。

旅はいつも自分に特別な贈り物をくれます。贈り物の中身が何なのか、気づくのに少し時間がかかることが多いのですが・・・。今回の旅はどうでしょう。やはりまだ咀嚼中、といったところかな。

今年もまた新しい経験が沢山訪れる年になる気がしています。変化の波におぼれないように、むしろ変化の波を事前にキャッチし、うまく乗りこなすことができるよう、『準備万端』な心がけをしたいですね。

気づきは日常に溢れていますから、今年もそれをみなさんとぜひ共有したいと思っています。

『季丘タロット』 共々、よろしくお願い申し上げます。    伊野華絵

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